築城年代は定かではない。築城は逸見駿河守昌経によるものと考えられている。
逸見氏は若狭国守護武田氏の支族で逸見党と呼ばれた有力家臣であったが、しばしば主家武田氏に反乱を起こしている。
弘治年間から永禄年間はじめにかけて若狭国守護武田義統と父信豊との間で内紛が起こった。永禄4年(1561年)逸見昌経は丹波国八木城主松永長頼の支援を受けて、国吉城の粟屋勝久とともに謀反を起こし砕導山城に籠った。義統は独力での征伐ができず、越前の朝倉氏に援軍を依頼して砕導山城へ押し寄せ、数か月に及ぶ攻城の末、逸見氏を敗った。
逸見昌経は敗れたがその勢力は失われておらず、高浜城を築いて居城とし、後に織田信長に仕えた。
砕導山城は佐伎治神社の背後にある半独立丘陵に築かれている。 砕導山城は砕導山城砦群と呼んだほうがわかりやすい位に山全体に城砦が築かれ、規模においては若狭守護武田氏の後瀬山城を凌いでいる。
砕導山城は忠魂碑、愛宕神社、妙見神社、その南の標高134mの三角点の建つ頂、愛宕神社から南東に伸びた尾根先の頂部にある千丈ヶ嶽、千丈ヶ嶽から北東に伸びた尾根にある天王山一帯にある城砦で構成される。
忠魂碑付近は削平地のみで堀切などは見たらない。
愛宕神社付近は北側の尾根に二重の堀切が残っている。
妙見神社付近は削平地がいくつか有り、三角点へ向かう尾根に堀切が残る。
三角点付近は削平地のみで堀切は見当たらない。
千丈ヶ嶽は中心的な存在で、愛宕神社へ通じる尾根に土橋の架かった堀切があり、北斜面には規模の大きな竪堀群が残る。東と北東側の尾根に削平地が連なり、その間の斜面には階段状の段が無数に設けられている。天王山へ向かう北東の尾根には最大規模の堀切が二条設けられている。
天王山から先は削平地と堀切、斜面には無数の階段状の段が設けられ、尾根全体に広がっている。
国道27号線若狭高浜駅前交差点から一本東側の宮崎交差点を南下して佐伎治神社を目指す。ここから妙見神社に向かって遊歩道がある。
忠魂碑、愛宕神社、妙見神社へはこの遊歩道に沿って行くことができる。標高134mの三角点には妙見神社の南側の削平地付近から南の尾根に向かって進むとたどり着く。マーキングテープがあるので分かる。
千丈ヶ嶽へは愛宕神社の遊歩道から南の尾根伝いに進むとたどり着く。または、佐伎治神社の東側にある広峯神社脇から鉄塔整備用の道を行くと天王山と千丈ヶ嶽に行くことができる。
最寄り駅(直線距離)