築城年代は定かではないが加久見氏によって築かれた。
加久見氏の祖については詳らかではないが藤原氏を称している。 応仁2年(1468年)土佐に下向した前関白一条教房に嫁ぎ次男一条房家(土佐一条氏の実質的な初代)の生母となった中納言局は、加久見土佐守宗孝の娘である。宗孝は教房の推挙によって土佐守に任命されている。
天正2年(1574年)一条兼定が三家老によって豊後へ追われたとき、加久見左衛門宗清(三崎左衛門とも)は大岐城主大岐左京進らと兵を挙げ一条氏の老臣を討伐した。 しかし、翌天正3年には長宗我部元親の軍勢が幡多へ侵攻し、一条氏は滅亡、加久見氏も長宗我部氏に降った。
加久見左衛門は三崎城主で三崎左衛門とも称し、文禄2年(1593年)朝鮮にて討死(あるいは病没とも)し、長宗我部氏滅亡後の加久見氏の動向は不明である。
加久見五輪塔群の案内板にある系図を参照すると、加久見氏は加久見入道、加久見土佐守宗孝、加久見宗勝、加久見宗頼、加久見因幡守、(三崎)加久見宗清と続いたようである。
加久見城(上城)は北の山塊から南東に伸びた尾根の先端に築かれている。北には深い谷が入り、南は川に面して急峻で南東麓には加久見氏の居館がある。居館のある谷を挟んだ南方には加久見城(下城)がありここも加久見氏の居城という。推測でしかないが縄張りなどから考えると最初に上城を築き、後に南方からの防御を高める為に下城を築いたのではなかろうか。春日神社の南にある香佛寺には加久見五輪塔群(写真は下城を参照)がある。
加久見城(上城)は北西に伸びる尾根に五条の堀切を設けて遮断し、南端に曲輪を設けた単純な縄張りである。先端に南北に長い曲輪を設け、東下に腰曲輪、先端の南に馬蹄形の小郭二段を設けている。広い曲輪の中央部分は岩盤を方形に浅く削ったような感じになっているが、雨水を溜めるには浅すぎで用途は不明である。北背後は三段程の小段のある高台で、曲輪というよりは櫓台に近いものになっており、その後方は深い堀切になっている。この堀切を含め背後の尾根には五条の堀切が設けてある。四条目の堀切は他とは異りやや幅広のもので、五条目はここから少し離れた位置にある。この堀切以降もしばらく歩いてみたが、やや平な自然地形が伸びているだけで目だった遺構は見当たらない。
加久見にある春日神社から川沿いに北に進み、橋の所から東の谷間の集落内に入る。道路からは見えづらいが、北の畑の奥に落石防止工事の法面加工の上に上がる石段が付いている。この辺りの畑地が居館跡で、この石段を上がった辺りからつづら折りに踏み跡が付いている。