築城年代は定かではない。城主は川井(河合、川合など)氏であった。
明応5年(1496年)に松葉城が攻め落とされ、城主川井成信が討死しているが、攻めてきた相手は諸説あり、『掛川市史 上巻』では今川氏親の禁制があることから駿河今川氏によって攻められたとするが、『地域の中世5-今川氏と遠江・駿河の中世(岩田書院)』ではこれを否定して在地領主間の抗争ではないかとしている。
松葉城は掛川PAの東、倉真川に沿って伸びた山上に築かれており、現在は見学路が整備されている。
手持ちの資料ではII1を主郭としており現地の石碑もII1に建っているが、全体的に見るとI1を主郭と考えるのが妥当と考えており、ここではI1を主郭として記述する。
主郭部は曲輪群Iで最高所は自然尾根をそのまま残し背後を大堀切4で遮断する。I1から西に伸びた尾根にI2、I3、I4と曲輪を設け西端を堀切4で遮断する。一方曲輪群IIの尾根には堀切を設けていない。
曲輪群IIはII1を最高所として周辺に腰曲輪があり、南西尾根にII2、II3北尾根に二重堀切2、北西尾根に腰曲輪II4を設けてその下方を堀切1で遮断する。現在は道路が尾根を貫通しているが、この部分にも曲輪があったと云われ、発掘調査で礎石が確認されているという。
主郭背後を遮断する大堀切4の東側の小ピークに曲輪IIIがある。曲輪と呼ぶほどの広さもないが、北尾根を小規模な堀切5、東尾根を小規模な堀切6で遮断してある。ここから東へ続く尾根は自然尾根と農地によって改変された地形が続くが、厩平と呼ばれるところは城主の居館があったところと伝えられている。
西口(登口1)と東口(登口2)があるが、西口のほうがわかりやすく城域にも近い。
見学路はトラロープなどで整備されているが、急峻な山で尾根幅も狭く危険なところもあるので注意が必要。
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