築城年代は定かではないが余田氏によって築かれたと云われる。
元弘3年(1333年)足利尊氏が丹波国篠村で兵を挙げると、余田氏もこれに馳せ参じたという。
天正2年(1574年)黒井城主荻野直正に攻められ落城しその軍門に降った。天正6年(1578年)明智光秀が丹波国へ侵攻し、明智光春の軍勢に攻められ落城。城主余田為家は黒井城目指して城を脱出したが果たせず、自刃して果てたという。
城は宗福寺の北にある西から東へ伸びた山に築かれている。
宗福寺から少し西へ行った所から山の鞍部を越えて北側の集落へ抜ける峠道があり、この城の遺構はこの道から東へ登った所と西へ登った所の二箇所に存在する。 便宜状、東の城と西の城と呼ぶこととする。
東の城は峠から東へ登った所にあり、西尾根を二重堀切で断ち切っている。削平地は東へ伸びるが鉄塔付近からは草に覆われて確認していない。
西の城は峠から西へ登った所にあり、こちらのほうが規模が大きい。 尾根伝いに曲輪があり、東端や西端に土塁が残っている。北側に帯曲輪が三段程ついた曲輪も残る。もともとは石垣があったとも伝えられているが、僅かに石垣に使われていたと思われる石があるものの明確ものは残っていない。
宗福寺から少し西へ歩くと工場があり、その横の道を奥に行くと民家があるが、その脇から山へ道が通じている。
最寄り駅(直線距離)