築城年代は定かではない。
伝承によれば城主は篠部氏で、延元元年(1336年)篠部有信のときに、釣鐘尾城主野石甲斐守源太、塔の尾城主長九郎左衛門に攻められ落城、以降長氏一族の城となったという。
寛延3年(1750年)に差し出された文書に「嶋山城主石津甲斐守様」とあり、弘治3年の『但馬国にしかた日記』には七日市場に「石津殿」が居住していることから、戦国時代末期には石津氏の城であったと考えられている。
志馬比城は香住駅の南に隣接し、矢田川に沿った独立丘陵に築かれている。
城の中心部は南東の最高所で、北西に細長く伸びた尾根は現在島山公園となっているが、ここも本来は城域であったが、遺構は消滅している。
主郭Iは東西二段で広く削平されているが、土塁はない。北東隅が虎口のようで通路がついており、北東の竪堀群の間を下っているがその先は不明である。この主郭の北と東側面にびっしりと畝状竪堀群1、2、3が設けられている。
南西に伸びる尾根に曲輪IIがありその下方に弓なり状の堀8がある。南下には城内で最も広い曲輪IIIが東西に伸びている。
南山腹には削平段がつけられているが、畑として利用されていたようである。南西に伸びる尾根に竪堀9があるが、もともとは堀切の可能性がある。
北西に伸びる尾根は二重堀切5があるが、この辺りも地形改変されている雰囲気がある。二重堀切5は堀切部分より低いところから竪堀が伸びており、堀切の鞍部を埋めたような感じになっている。主郭下の削平地も北側は土塁から竪堀が伸びており、土塁の内側は削られた痕跡があることから、堀切の可能性がある。そうなると三重堀切でVIに近い一番外側が箱堀となる。
曲輪VIはほぼ自然地形で、かつて西城があったとされる島山公園に続く尾根に二ヶ所(堀切6、堀切7)の堀切地形が確認できる。
鳥山公園から登る方法と南側から貯水タンクへ登るルートがある。
鳥山公園に駐車スペースがあるが、そこまでの道が狭く街路樹もあるため小型車でないと難しい。鳥山公園に続く道の入口付近が広くそこに駐めた。
最寄り駅(直線距離)