築城年代は定かではない。
天文4年(1535年)頃に因幡山名氏の一族山名上野介が所領を失って但馬の山名祐豊を頼って二人の子を預けた。波多野秀光に養育された二人は兄豊直が夜久野城、弟豊次が野間館(磯部氏館)に入れた。この豊次が磯部義太夫豊次と称した。
豊次の子、新右衛門は福知山城主有馬氏に仕え、元和6年(1620年)久留米転封に従って移ったが、豊次はこの地に残って寛永20年(1643年)に没したという。
磯部氏館は国道9号線に隣接した比高60mほどの山に築かれている。名称は館であるが立派な城である。
山頂の主郭を中心に南側に曲輪群を連ねている。一部は開墾されていたと思われ、南東の谷筋にある平段などは城郭にともなう平場ではないような印象もあるが、残存状況は良い。
土塁は曲輪IIの一部に高さ1mほどのものが残っている程度である。主郭の南にある虎口1は屈折する通路があり、その脇に小規模な竪堀3を設けている。曲輪IVの西端にある虎口2から南の谷筋に下る道が大手筋だろうか。
北背後は堀切1で遮断するが主郭の切岸は高いものの尾根側とはあまり高低差はない。北側には竪堀が伸びておらず、南の竪堀はそのまま西側面にある畝状竪堀群2と連動する。
西側面にある畝状竪堀群2は幅広の竪堀を連ねており見ごたえがある。曲輪IIの西下のあたりは横堀と竪堀が結ばれている。
南麓にある民家の脇から墓地を経由して登る事ができる。住民の方は城があるのはご存知だった。
城から南西に進んだ所に大内集落センターがある。この裏山に磯部甚太夫豊次と波多野軍曹秀光の墓がある。
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