築城年代は定かではない。富士大宮司に関わる城、屋敷であり、永禄4年(1561年)今川氏真は富士信忠に大宮城代を命じている。
永禄11年(1568年)甲斐の武田氏が駿河に侵攻すると大宮城も攻撃を受けた。一度は退けたものの武田信玄率いる本軍によって激しく攻められると降伏開城し、富士氏は北条氏を頼って落ちていった。しかし、元亀2年(1571年)甲相同盟が復活すると富士氏は武田氏に使えることになり穴山梅雪の配下に置かれた。
大宮城は武田家臣渡辺豊後が守備していたが、武田氏滅亡後北条氏によって焼き討ちにあい廃城となった。
参考: 『日本城郭大系』、『静岡県の城跡-中世城郭縄張図集成(中部・駿河国版)』
大宮城は現在の大宮小学校の辺りに築かれていた。小学校のある辺りが字「城山」、神田蔵屋敷稲荷を北東端とした、小学校の南西側一帯が字「蔵屋敷」となる。遺構はないが、『静岡県の城跡-中世城郭縄張図集成(中部・駿河国版)』によれば、小学校のグラウンドとその南側一帯で発掘調査が行われ、幅約10mの堀が検出されたという。