築城年代は定かではないが暦応年間(1338年〜1342年)頃に片切孫三郎為幸によって築かれたと云われる。為幸は船山城主片切為清の子で、赤須を領して赤須氏を称したという。
武田信玄の勢力が伸びてくると赤須氏はその家臣となり春近衆の一人となった。天正10年(1582年)織田信長の軍勢が信濃へ攻め寄せてくると大島城に籠もって対抗したが、敗れて滅亡したという。
赤須城は天竜川により段丘の東端に築かれている。台地の先端が細くなった所に大きな空堀を配して連続する曲輪を形成しており、この辺りではよくある選地と縄張である。
現在は城内を車道が貫通しており、遺構は損傷しているものの大きな空堀などは確認できる。案内板が設置されている所が本丸とされ、その西側に大きな空堀が二条残り、一部土塁も付いている。東は車道の先に曲輪があり、その先に堀切が二条あるようだが、藪がひどてので未確認である。
主郭の車道脇に案内板がある。そこから少し西に駐車場とトイレがある。
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