築城年代は定かではない。 永禄8年(1565年)頃は佐倉城主千葉胤富の所領で、勝浦城主正木時忠が里見氏に叛して見広城・伊達城・仲島城を攻めたとき、その余勢で長禅寺も焼失したという。ただ、正木時忠が里見氏を離反して北条氏と組んだならば、北条氏方の千葉氏と争う必要はなく、永禄3年(1560年)の事だろうか。
天正10年(1582年)には椎名右京助の居城であった。
椎名内城は現在の長禅寺境内付近に築かれていた。 日本城郭大系によれば、「長禅寺の西に隣接するようにあり、鬼門(北東)に琴平神社が祀られている。」とある。現在長禅寺の西側はミニ四国八十八箇所巡りの霊場、その西側は田畑となっている。このうち、四国霊場の辺りは低い土塁と溝が残る。この辺りが城跡とすると、琴平神社は北西に位置することになる。