築城年代は定かではないが南北朝時代に河村秀高によって築かれたと云われる。
文和元年・正平7年(1352年)南朝方の河村一族は、新田義興等の軍勢とともに河村城に籠城して、北朝方の畠山国清等と対峙した。城は難攻不落であったが、翌年南原の戦いで南朝方は惨敗を喫して河村一族の多くが討死し、新田義興は越後国へ逃れた。
戦国時代末期には小田原北条氏の属城となっていたが、小田原征伐によって北条氏が滅亡すると廃城となった。
河村城は山北駅の南に聳える標高225m程の城山に築かれており、浅間山の西峰になっている。現在は河村城歴史公園として整備されている。
河村城は西峰の中心となる部分に主郭を置き、北、南西、東の三方に伸びる尾根に曲輪を展開している。曲輪の間は大きな堀切で遮断しているが、これらの堀切は堀底に障壁を設けた畝堀となっている。畝堀は発掘調査などでときとぎ検出されてはいるものの、埋め立てられたり浅くわかりづらくなったものが多いなか、河村城の畝堀は非常にわかりやすく展示されており一見の価値がある。
注目すべきは主郭の東にある近藤郭で、発掘調査によって大きな堀跡が検出され、ベンチを並べた形で地表面で再現されているが、これを復元すると、西の蔵郭から東の大庭郭へと繋がる馬出しのような構造になっている。
登り口は大きく二ヶ所あり、車の場合は東の浅間山の方から回り込む道で道標に従うと終点にトイレ付きの駐車場があり、すぐ先が城域の東端となる。
徒歩の場合、山北駅から南の盛翁寺の方に進むと、さらに奥にトイレ付きの駐車場があり、ここから登ると主郭に達する。
最寄り駅(直線距離)