築城年代については諸説あり定かではないが、一般的には鎌倉時代末期に前関白近衛家基に従って設楽庄に入部した鶴見長実が嘉元3年(1305年)に築城したのが始まりと云われる。
鶴見長実の子、鶴見道宗が城主となり、弟行俊は小川氏を称して代々続いたが、長享元年(1487年)に多羅尾和泉守に敗れた小川成俊は山城国和束庄へ逃れ、以降は多羅尾氏の所領となった。
天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで所領に戻る際に設楽で一夜を明かしたのが、この小川城と伝えられる。 文禄4年(1595年)に多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、秀次に連座して改易されたが、その後に徳川家康に召し出されて旗本となり、江戸時代には多羅尾代官陣屋を構えている。これは多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。
小川城は小川集落の南東にある標高470.4mの通称城山山頂に築かれている。
主郭は南西から北東方向に伸びた山頂部に築かれており、南西端に櫓台を設けた土塁で囲まれた曲輪で、北西側に虎口があり力石がある。土塁が屈折した形状で草で覆われ確認できないが、礎石が残されているという。北東側は土塁で区画された削平、小段と続き、南西側は堀切で区画され東屋の建つ曲輪がある。南へ続く尾根は堀切で遮断され、北西の中之城に続く尾根にも一郭あり、尾根は土塁と堀切で遮断されている。
大光寺には近衛家基とその子経平そして多羅尾氏の祖となった高山太郎師俊の墓があり、多羅尾氏の墓所もある。
山頂の主郭のすぐ下まで林道があり、普通車クラスなら車で登ることができる。林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出ており、これにしたがって林道を進めばよい。
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