築城年代は定かではないが阿曽沼氏によって築かれたと云われる。 阿曽沼氏は下野国阿曽沼郷を本貫とする一族である。阿曽沼広綱は源頼朝に属して寿永2年・治承7年(1183年)の野木宮合戦や文治5年(1189年)の奥羽平定に功績があり、陸奥国遠野保(遠野十二郷)の地頭職を得た。広綱の次男親綱が遠野保を与えられ、その子孫が遠野阿曽沼氏となった。
遠野阿曽沼氏はこの横田城を居城として代々続いたが、天正年間(1573年〜1592年)の阿曽沼広郷のときに現在の鍋倉城の地に新城を築き、この新城もはじめは横田城と呼んでいた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に広郷は参陣しなかった。その結果所領の没収は免れたが、南部氏に帰属するよう命ぜられ、独立した大名ではなくなった。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で、阿曽沼広長は上杉景勝を討伐するため南部利直に従って山形へ出陣したが、この戦に従軍しなかった一族で鱒沢城主の鱒沢広勝が謀叛を企て、留守番であった上野広吉、平清水平右衛門も加わって鍋倉城は乗っ取られ、山形より帰還した阿曽沼広長は城に戻ることができず世田米城へ退いた。
その後、阿曽沼広長は伊達氏の支援を得て遠野奪還を三度試みたがいずれも失敗し、遠野領は南部氏に組み込まれた。
横田城は高清水山から南東に派生した護摩堂山と呼ばれる丘陵に築かれている。 現在は主郭部に薬師堂があり、登山道が整備されている。
横田城は南東へ伸びた丘陵に段々と曲輪を連ねた山城であるが、詰城というよりは館城に近いもので、曲輪は全体的に広く、下部は畑などになっている。薬師堂のある所が本丸とされるが、北西側はもう一段高く、その背後には大きな空堀があり土橋が架かる。空堀に面して一部土塁が残っている。
登山道入口は南麓にあり、国道283号線から「清心尼公の墓(地図)」、「阿曽沼氏墓所(地図)」を経て北へ道なりに進んでいくと道標が出ている。 (地図)
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