築城年代は定かではないが鱒沢氏によって築かれたと云われる。 鱒沢氏は横田城阿曽沼氏の庶流で阿曽沼光綱の次男守綱が鱒沢村と小友村の半分を分与され、上町に館を構えて鱒沢氏を称したのが始まりとされる。
鱒沢氏は守綱、守国、守光、広勝と続いていく。鱒沢広勝は秘かに南部信直に通じて領土の拡大を願っていた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に阿曽沼広郷が参陣しなかったことから、阿曽沼氏は南部家に帰属するよう命ぜられた。
慶長5年(1600年)阿曽沼広長は南部利直に従って山形へ出陣した隙に、鱒沢広勝は謀叛を企て、留守番となっていた上野広吉、平清水平右衛門を味方に付けて鍋倉城を奪取し、山形より帰国した広長を遠野へ入れず追い払った。遠野を追われた広長は舅の世田米氏を頼り、伊達家の支援を受けて遠野奪還を試みた。慶長6年(1601年)平田の戦いで鱒沢広勝は討死したが、三度の奪還も叶わず遠野は南部領に確定した。
鱒沢広勝の家督を継いだ鱒沢忠右衛門は南部利直の養女を後室に迎えるなど、南部家に重用されたが、後に謀叛の疑いで切腹を命ぜられ、鱒沢氏は滅亡した。
鱒沢城は長泉寺の北背後の山に築かれている。長泉寺は天正2年(1574年)に鱒沢広勝の開基と伝えられる。
鱒沢城は一風変わった縄張りで、南東に向かって伸びた尾根の斜面に段々に削平して曲輪とし、それらを取り囲むように、最高所から東西両側へ巨大な空堀を巡らせ周囲を完全に遮断している。
最高所の小さな平段には社が祀られており、その北背後は高土塁となっている。北尾根は二重の堀切と両側に二条、三条を竪堀を設けて尾根を遮断している。東西両側を巡る空堀は巨大で二重になっている部分もある。
2013年に初めて訪問したが、その後、木が伐採されているという情報があったので2016年に再訪した。城跡の整備が目的ではなく、周辺の山同様に単に木を伐採しているだけのようであるが、残念ながら作業林道が空堀や土塁の一部を破壊して城内にまで到達している。木が伐採されて荒れ地となるとイバラがすぐに群生し、歩くだけで大変なのだが、すでにその状況になりつつある。極めて特殊な縄張りの城であり、遺構も良好に残っているだけに遺して頂けるとありがたい。
長泉寺に案内板が建っている。城内の最下段に御堂があり、そこへの参道が長泉寺の東側の奥に付いているが見つけづらい。
本堂の脇から裏側へ回ると墓地への道があり、その辺りから山へ入って行くのが簡単だろうか。
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