築城年代は定かではないが毛馬内備中によって築かれたと云われる。 毛馬内氏は武蔵七党の一つ横山党の出自で武蔵国北埼玉郡成田郷を領して成田氏を名乗り、後に鹿角にも所領を得て鹿角四頭の一人に数えられたが、その動向については不明な点が多い。鹿角四十二館の一つ。
天文5年(1536年)南部氏は浅利氏・安東氏などに対抗するために、三戸南部政康の五男靭負佐秀範を毛馬内二千石に封じて当麻館に入れた。この秀範も毛馬内氏を称し、南部氏系毛馬内氏の祖となる。
永禄年間(1558年〜1570年)に出羽国檜山城主安東愛季の鹿角侵攻に際して毛馬内氏を除いた鹿角四頭(大里備中・花輪中務・柴内相模)は安東氏に味方し、南部氏の長牛館を攻撃した。南部氏は永禄11年(1568年)より鹿角奪還の為に侵攻し再び鹿角を取り戻した。
慶長12年(1607年)南部信直の命によって柏崎館の築城が命ぜられ、毛馬内政次は柏崎館を築いて当麻館より移り廃城となった。
当麻館は高清水川が小坂川に合流する手前、南に伸びた河岸丘陵の先端に築かれている。
当麻館は旧十和田中学校が本館に建設され、さらに現在は運動公園となってしまった。 そもそもこの辺りの館は曲輪の面積が広く、この本館に至っては野球のグラウンドがゆうに二面はとれる規模になっている。この本館の南端に毛馬内氏を顕彰した石碑が建てられている。
この本館の南端に土塁らしき跡があり、空堀を挟んで前館がある。現在前館の所は人工林になっているのだが、日本城郭体系に掲載されている縄張図では建物が描かれているので、ここも改変が行われているようである。
搦手門(移築 城門)
国道282号線沿いに運動公園への入口がある。
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