築城年代は定かではないが浄法寺氏によって築かれたと云われる。 浄法寺氏は鎌倉御家人畠山重忠の末裔を称し、重忠の三男重慶を祖とする。
浄法寺氏は十四代浄法寺重恒のときに南部守行の麾下となり、二十五代浄法寺重房のときに三戸南部氏の家臣となったと云われる。
天正19年(1591年)九戸城主九戸政実が反乱を起こしたとき、浄法寺修理は南部信直に従い、豊臣秀吉による奥州仕置き軍として浅野長政の先鋒として九戸城攻撃に布陣している。
浄法寺修理は五千石を領して南部家の重臣であったが、慶長5年(1600年)南部利直の岩崎城攻めで、これに従っていた浄法寺修理は不手際を犯して家名断絶となった。
浄法寺城は安比川の北岸の台地の上に築かれている。 浄法寺城は八幡館、大館、新城館、西館、北館の五つの曲輪からなる城で、現在はほとんど畑となっている。八幡館と大館、大館と新城館を区画する空堀は現在道路となっており、新城館と大館の間の道路沿いに案内板が建っている。