築城年代は定かではないが佐原経連によって築かれたと云う。 佐原氏は三浦氏の一族で黒川城の蘆名氏とは同族であり後に猪苗代氏を称した。佐原経連が最初に築いたのが八手山城と云われ、その後この猪苗代城を築いたという。
天正16年(1588年)鶴峯城に隠居した猪苗代盛国は当主盛胤が蘆名義広に伺候している隙を付いて猪苗代城を乗っ取り伊達氏に内通した。これを機に天正17年(1589年)伊達氏が猪苗代城に入城し、麿上原で蘆名義広を破り会津を手中に治めた。 しかし、伊達氏は小田原合戦後の奥州仕置によって会津を召し上げられ、会津は蒲生氏郷の治める所となり猪苗代氏は伊達氏に従いこの地を去った。
その後、猪苗代城は一国一城令の例外として会津若松の支城として存続し、各大名の城代が置かれ明治を迎える。
猪苗代城は猪苗代小学校の南にある標高550m程の丘陵に築かれた平山城で、現在は亀ヶ城址公園として整備されている。
本丸は山頂にあって南北に長く楕円形、南に黒門、東に裏門があった。南下に二の郭があり、本丸の東下へ降りる大手道に櫓門があり、東麓の枡形虎口へと続いていた。さらに山上には北帯曲輪、西帯曲輪、南帯曲輪があり、これらは土塁囲みであった。石垣は本丸隅櫓や東の大手側に使われているのみである。
猪苗代城の北にある鶴峯城との間に大堀切があり、ここから西側面を回って南の大堀切まで繋がっていた。
公園東麓にある枡形虎口の部分に駐車場がある。
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