築城年代は定かではない。城主は朝日右衛門尉と伝えられ、朝日氏は藤原藤房の末裔といわれる。
天正6年(1578年)大浦為信は浪岡城の北畠氏を敗ったが、その後も飯詰城の朝日行安は大浦氏に抵抗し続けた。天正16年(1588年)になってようなく飯詰城も落城したという。
飯詰城は妙龍寺の東背後にある標高40m程の山に築かれている。
東の山頂部に主郭、その西の尾根上にあるのが二郭と思われる。主郭と二郭の周辺には帯曲輪などが取り巻いて段曲輪となり、その周囲は果樹園などとなってどこまでが城の遺構か不明であるが、北側側面には竪堀がある。
主郭の東背後にある空堀と思われる遺構が不思議な形状で、東西に伸びて曲輪を南北で分断するような形状をしている。城の遺構と思われるが、何故このような配置になっているのかわからない。
妙龍寺からそのまま奥へ登っていけば主郭に至る。
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