築城年代は定かではない。享徳2年(1453年)頃に南部氏に敗れた安東義季(下国)は十三湊から蝦夷へ逃れた。その後、狼倉館を拠点として津軽奪還を目指したが嘉吉2年(1442年)に自刃し安東嫡流は断絶、安東氏の残党は深浦館を築いて抵抗したという。
天文2年(1533年)大光寺城主葛西頼清が南部に攻められ、この地へ逃れて木庭袋頼清と名乗った。その後、千葉弾正が在城する。
深浦館は北へ伸びた台地の北端に築かれている。
南北二郭の城で、北が主郭、南が副郭とされる。主郭は南北に長く一段高くなり、南の副郭は北の主郭側が低く南側が高く段々となる。いずれも曲輪は広く平坦に造成されている。この城の最大の特徴が南尾根を遮断する五重堀切で、100m程の尾根幅がある所を五重堀切で遮断しており、堀の幅は全体で40mを越えている。
北麓に「深浦町福祉センター・元城館」があり、その向かいに案内板が設置されている。登り口はそこから東の林道側に向かった所で山側に鳥居の残骸があるところで、谷筋に登って行くと主郭と副郭の間に出る。福祉センターの駐車場を利用した。
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