寛文3年(1663年)岩松秀純によって築かれたが、城はそれ以前の築城と考えられている。
岩松氏は新田氏の宗家であったが、徳川家康の関東入部にさいして不手際があり、岩松守純はわずか二十石の禄を与えられただけであった。その後、寛文3年(1663年)秀純のとき百石の加増を受け旗本交代寄合となり岩松陣屋から下田島へ移された。
下田島城は現在太田フレックス高等学校の敷地内にある。航空写真で林になっている部分でテニスコートの北側にある。
学校の敷地内にあるため見学する機会に恵まれないが、南の道路側から見ると空堀と土塁のようなものが見える。手持ちの資料によれば土塁と横堀で囲まれた単郭の城で、北西隅に櫓台があるようである。