築城年代は定かではないが南北朝時代に竹原八郎によって築かれたと云われる。 竹原八郎は入鹿氏の一族で熊野落ちした護良親王を迎えて南朝方として活躍したという。
竹原八郎の館の伝承地はいくつかあるようだが、もっとも有力とされている地が花知神社に残る居館跡である。
竹原八郎館は北山川に面した段丘の上に築かれており、土塁と堀で区画された館である。 土塁は南東面と南西面が完存、北東辺は北端部に残存、北西辺は西端部分にわずかに高まりがある程度となっている。
南東の土塁は内側に石積がなされているが、現状は近年整備されたものと思われる。ただ2009年時点で南西辺の土塁には内側と外側に石積が確認でき、北端部に残る土塁にも石積がわずかに残っており、整備される以前から石積を伴っていたと考えられる。
堀は北東の水路となっている部分のみ残っているが、本来は道路に沿って南東面にも残っていたのようで、そのまま130mほど先まで続いていたという。
花知神社の駐車場がある。