案内板によれば、烏田権兵衛の築城。また『出雲の山城』によれば、毛利が瀬戸山城の赤穴氏に降伏を迫った時、徹底抗戦を唱えた赤穴氏家臣森田氏と烏田氏が籠もった「松本山の石城」が賀田城とされているという。
賀田城は神戸川西岸に聳える標高494.1mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
山頂の主郭を中心として東西に長く伸びた尾根に曲輪を展開している。重機で削った登山道が西の曲輪viから曲輪iiiまで侵入しており、遺構の一部が破損しているが、概ね良好である。
大手道は旧登城路と書かれた南のつづら折れの道で、山頂に近い部分は道を挟むように東西両側に竪堀を設けており、曲輪iiiの虎口に続く。この虎口は両側にやや高い土壇が残り、櫓台などが厳重な虎口であったことが想定できる。
主郭となる曲輪iは中央が一段小高く、東西両端に虎口がある。東の虎口2は低い土塁が開口し、曲輪iiを経て曲輪iiiに続くスロープ、西の虎口3は北側の「池の段」を経て曲輪iiiに至る。
南の大手道の東側には多くの畝状竪堀群があり、西側の畝状竪堀群4は曲輪下から長いものは山腹の登山道まで竪堀が伸びている。東には畝状竪堀群5があり、東端の長い竪堀を除き、山腹の緩斜面地形となった部分にやや間隔を開けて竪堀を設けている。
東尾根は三重堀切6、西の曲輪viの下に堀切3があり、その下に曲輪viiとviii、西端は堀切+竪堀1で遮断している。
堀切3より西の曲輪群は改修によって増設された曲輪群で土塁によって囲まれ、viiiとviiをつなぐ虎口4がある。また曲輪viiとviとの間は登山道によって改変されているので詳しくは不明だが、堀切3の南北両端に通路が確認できるので、この辺りを経てつながる。曲輪viiの東端部虎口付近には不明瞭ながら中央に鈎状屈折した土塁地形がある。
曲輪iiの東側に「賀田城 石ダンス」とあるが、おそらく、側面にある柱状節理のことであろう。東尾根の北や南側面に高い柱状節理が確認できる
登山道入口は南麓の道路沿いにあり入口に案内板がある。案内板から少し西へ進んだ所に路肩が広くなっており駐車可能である。
大手道と考えられる道は新しく作られた登山道からさらに下方に伸びており、簡易水道施設?の辺りに到達する。
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