築城年代は定かではないが摂津氏によって築かれたと云われる。 摂津氏は公家の出自で暦応4年(1341年)「摂津親秀譲状」に伊予国矢野・保内・八幡浜などが記され、親憲分として伊予国大野・保内・南方(但八幡浜除之)を記す。この摂津親憲が伊予に下向したのが摂津氏の始まりという。
戦国時代には西園寺氏十五将の一人として「南方殿」と呼ばれていた。 摂津豊後守実親は萩森城主宇都宮氏との戦いで討死し、摂津親安が家督を継いだ。 天正12年(1584年)長宗我部氏の軍勢に攻められ落城、摂津伊予守親安は一安と号した。
元城は神山小学校の南西にある元城団地に築かれていた。
「媛県中世城館跡」に掲載されている縄張図によれば、北へ伸びた丘陵に曲輪を連ねた連郭式の山城であったようであるが、現在は団地の造成によって消滅してしまったようである。
団地の南側に墓地などが残されているので遺構が無いものかと散策してみたが、全く遺構は確認できなかった。団地にも「元城団地」の石碑があるのみで城に関するものは見あたらない。
八幡浜市の祭に「五反田の柱祭」というものがある。この祭りは元城に関係する山伏であった金剛院が敵の襲来を知らせようとした所、誤って元城の味方に討たれてしまったことに由来するという。