築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)末期頃に三上兵庫頭によって築かれたと云われる。 三上兵庫頭は但馬国守護山名祐豊の弟とも云われる人物で、仏門から還俗して山名豊弘と名乗り、その後に三上兵庫頭豊範と称した。
文正元年(1466年)山名勝豊が居城を二上山城から布施天神山城へと移したことから、治安が悪化し、領民が相談し但馬山名より三上兵庫頭を二上山城主として迎えた。しかし、二上山城は山高く不便であったので番兵を置いて、三上兵庫頭は道竹城を築きここを居城とした。
永録7年(1564年)因幡守護山名豊数に急襲され落城、三上兵庫頭も討死、城も廃城となった。
道竹城は岩美高校や岩美中学校の西側に聳える標高151mの山頂に築かれている。
道竹城は山頂にある主郭を中心として四方に伸びる尾根に曲輪を配しているのが「鳥取県中世城館分布調査報告書」に掲載されている縄張図で確認できるが、現在は大半が薮化しており遺構の確認が難しい。
山頂の主郭には大きな標柱や案内板が設置されており、下の帯曲輪には道竹城の供養塔が設けられているが、山頂部は木がないこともあって背丈を超える薮状態である。
確認した遺構は主郭から東へ伸びる尾根に階段状に設けられた曲輪群で、切岸は高くよく削平されている。供養塔の下の東側の山腹には複数の竪堀と堀切とが複雑に設けられている。
登山道は二つあり、校庭の奥にある谷間からの道と岩美中学校の脇から水道施設を経て仙英碑のある北尾根の先端から続く尾根道である。
前者は校庭を通らずに至る道がわからず、後者の道から登り帰りに前者の道を使って降りた。ここには個人の畑もあるが、校庭を通らずにここに至る道は付いておらず、岩美高校の校庭を通って入るようになっている。
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