築城年代は定かではないが天正から文禄年間頃に築かれたと云われ、 高千穂48塁の一つで三田井氏の重臣甲斐宗摂の居城であった。
天正19年(1591年)延岡の高橋元種は調略によって寝返らせていた甲斐宗摂を道案内に三田井氏を攻め、三田井氏を滅ぼすと、文禄4年(1595年)には宗摂も謀反の疑いで高橋元種に中崎城を攻められ落城、甲斐宗摂は城から脱出したものの鶴の平に追い詰められ自刃した。
城は追川と岩井川が五ヶ瀬川に流れ込む西の断崖の上に築かれている。 城山を見た瞬間「何だこれ?」と思わず口ずさんでしまった程の山容である。
車道を使って背後に回り込むと井戸が残っており、その上に東西に長い主郭がある。主郭の西端はやや高くなり土塁のようである。主郭から北と東に伸びる尾根に曲輪が連なっている。西の尾根は車道によって破壊されているのだが、車道沿いに少しの登った所に堀切がある。
城山の北、県道209号線を西へ進むと山上へと登る車道がある。