天正6年(1578年)佐伯宗天によって築かれたと云われる。
天正6年(1578年)豊後の大友宗麟の軍勢は日向へ侵攻し、高城を攻めるため野久尾陣、松山陣(惣陣)、田間陣、河原陣、松原陣の五箇所に陣を構えた。この松山陣には佐伯宗天が布陣した。この高城合戦で敗れた大友軍は敗走する中でさらに多くの将兵を失い、以降衰退していく。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐では羽柴秀長の軍勢が高城を攻めたときにも活用された。
松山塁は高城の東にあり、北の大地が南へ張り出した先端部に築かれている。
北にある台地側を大きな空堀で遮断し、空堀の内側に土塁を設けて二重堀にしているのが特徴である。北に土塁を配した曲輪が南北二つならび、その間も大きな空堀で遮断している。南西側には段々と帯曲輪状の地形が下まで続いているが、下方にあるきれいに石積された段は畑跡のようで近くには廃屋がある。
北の大地には島津義久によって建立された宗麟原供養塔(カンカン仏)がある。また下鶴集落の八幡神社には討死した北郷蔵人の供養墓が残る。
北側にある宗麟原供養塔が目印。ここに駐車可能で、南へまっすぐ進めばすぐに空堀に出る。
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