築城年代は諸説あり、元和3年(1617年)、寛永15年(1638年)などの説がある。 いずれにしても唐津藩主寺沢広高の設計で福江藩二代藩主五島盛利によって築かれた。
五島氏の出自は詳らかではないが、松浦党の宇久氏を祖とする。宇久氏は宇久覚の頃に福江島まで勢力を拡げ岐宿城に入り、宇久勝の頃には辰ノ口城を居城として五島列島の大半を勢力下に収めた。
永正4年(1507年)宇久覚の家督を継いだ宇久囲であったが、妹婿である玉之浦城主玉之浦納の反乱によって討たれた。宇久覚と平戸松浦弘定の娘との間に三歳になった三郎がいたが、辛うじて祖父の平戸松浦弘定を頼って落ちていった。大永元年(1521年)元服して宇久次郎三郎盛定と称した三郎は松浦弘定の援助を受けて玉浦納の館を急襲した。不意を突かれた納は嵯峨島へ逃れていったが追手に追い詰められると自刃して果てた。
大永6(1526年)宇久盛定は江川城を築き、以後宇久氏の居城となった。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では宇久玄雅は軍勢を率いて赤間の関(下関)まで行ったが、玖島城主大村喜前の意見もあって東軍となり所領を安堵された。 福江藩(五島藩とも)は一万五千五百三十石で江川城を居城として始まった。
慶長19年(1614年)に居城であった江川城が焼失したことから石田陣屋が築かれ、幕末までこれを居城とした。
寛文元年(1661年)五島盛利の三男五島盛清が三千石を分与され、翌年富江陣屋を構えて交代寄合となり、福江藩は一万二千国余りとなった。
文化3年(1806年)に異国船防御を理由に幕府に築城を願ったが許可されず、嘉永2年(1849年)五島盛成のとき、幕府から築城許可がおり、文久3年(1863年)に石田城が完成した。この石田城はそれまでの石田陣屋を改修したものである。
石田城は福江港に面した海岸沿いにあり、現在本丸は五島高校の敷地となっている。
石田城はもともと海に面した城で、東側の五島観光歴史資料館と市立図書館との間に方形の石垣に囲まれた船着き場(水門)が良く残っている。五島高校の本丸を囲む内濠、外濠公園や五島邸の付近に外濠が残されている。
二の丸にある五島邸は五島氏庭園として国指定名勝にもなっているのだが、残念ながら工事中であった。
福江港から歩いて行くことができる。