築城年代は定かではない。 永禄5年(1562年)には江戸崎城主土岐氏の家臣近藤薩摩守が木原の地に取り立てられており、この頃には木原城が築かれていたといわれる。
軍記物などでは天正2年(1574年)に小田氏の家臣江戸崎監物が佐竹氏に寝返り、木原城は攻められて落城、天正11年(1583年)には葦名盛重など佐竹軍によって攻められ落城、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で木原城主は江戸崎城とともに北条方となり落城と三度落城しているが、「図説 茨城の城郭」によれば、発掘調査では焼土や土塁の作り直しなど激しい戦闘の痕跡は確認されていないという。また同書では、土岐氏あるいはその家臣である近藤氏といった小勢力が、現状のような巨大な城郭を築いた背景として、永禄6年(1563年)に土岐氏と小田原北条氏が同盟関係となり、天正元年(1573年)に佐竹氏が小田氏の支城である宍倉城や戸崎城を攻め落とし、土岐氏の勢力範囲と隣接するにあたって北条氏が土岐氏を支援した結果ではないかと推測している。
木原城は霞ヶ浦の低地に面した木原小学校一帯の微高地に築かれている。 小学校の西側の先端部分が、現在木原城址城山公園として整備されているが、城郭遺構は南にある近藤氏の菩提寺ともいわれる永厳寺付近にまで広がっている。
木原城址城山公園の部分は平地に面した微高地の北西端に辺り、台地と繋がる南東側に巨大な空堀に土橋を架け、周囲には高土塁が巡らされている。曲輪の北東隅には稲荷社の鎮座する稲荷曲輪があり、ここが櫓台であったと見られている。この北側の裾には水堀の名残がある。南東の空堀を挟んで南東側にも曲輪があり、ここは開墾されて畑となっているが、南東側の小学校側に土塁と空堀が残っている。
木原城の遺構の中でも特筆するべき遺構が。永巌寺の東側一帯に残る二重空堀である。この遺構の周辺は現在でも水がわき出る湿地帯となっている。
国道125号線の旧道沿いにある木原小学校の西側から公園に通じる道がある。二重空堀の遺構は永巌寺の南側から回り込むことができるが、入口がわかりづらいので本堂の東側を越えて行く方が確実である。
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