築城年代は定かではない。 天文年間から弘治年間(1555年〜1558年)頃の城主は千葉氏、永禄年間(1558年〜1570年)には三浦兵庫守盛永が城主といわれる。
三浦氏は相模国三浦発祥で甲斐国の三浦氏の流れを汲むと云われ、大河兼任の乱で海道の大将として千葉常胤が派遣されたときに従ってきたともいう。戦国時代には三浦氏は浦城・山内城・馬場目城に別れて安東氏に属していたが、天正15年(1587年)安東氏の内乱である湊騒動で湊安東氏に加担し、檜山安東氏の家臣石岡主膳によって落城した。
浦城は高岳山から東へ派生した尾根に築かれている。東西に伸びる尾根を土塁と堀切で区画して曲輪を列べた連郭式の山城である。
現在は「npo法人 浦城の歴史を伝える会」の方々によって整備されている。2009年に初めて訪れたときには本丸周辺のみ柵が設けられていたのだが、2016年の再訪では、大堀切に近い曲輪までビッシリと城柵があり、さらに本丸には御殿まで建てられていた。もはや凄いとしかいいようがない。
縄張りは単純で西に大堀切があり、そこから東へ堀切で区画した曲輪を連ね、本丸から東の尾根の先端まで続く。東端は自動車道によって消滅しているが、その手前に連続堀切がある。
城山の南麓にある常福院からもう少し登ると駐車場がある。
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