築城年代は定かではないが白岩氏(白岩大江)によって築かれたと云われる。白岩氏は寒河江大江氏の有力な支族であった。
天正12年(1584年)寒河江大江氏は最上義光によって滅ぼされ、白岩氏もまたときを同じく最上氏によって滅ぼされた。
寒河江一帯を領有した最上義光は白岩に一族の松根備前光広に一万三千石(一万二千石とも)を与え、大宝寺氏に備えた。
元和8年(1622年)最上義俊は最上騒動によって改易となり、白岩には庄内藩主酒井忠勝の弟酒井長門守忠重が八千石で入封した。しかし忠重は領内で圧政を敷いて白岩一揆が勃発するなどし、寛永15年(1638年)に改易となった。
白岩城砦群のなかで中心的な位置にあるのが白岩稲荷山楯である。
主郭は最高所にあり一段小高くなった方形の曲輪で畑となっているが、その一角に「白岩城之跡」の標柱がたっている。ここから南に下った先に稲荷神社を祀った曲輪があるが、その間にわずかに堀切と思われるような窪みがある程度で、全体として遺構は平段のみである。
南側の稲荷神社参道入口に「史跡白岩城跡登り口」の標柱がある。
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