築城年代は定かではないが利光氏によって築かれたと云われる。 利光氏は大友氏の庶流戸次氏の支流で、初代大友能直の孫家親が利光氏を称したのが始まりという。
天正14年(1586年)島津家久率いる島津の大軍が豊後へ侵攻すると、利光宗魚の籠もる鶴賀城を取り囲んだ。利光氏は城を固く守り島津軍を退けていたが、城主の宗魚は戦闘の最中に流れ弾にあたって討死したという。城内では城主の死を伏せて尚も固く守っていたが、豊臣秀吉が派遣した仙石久秀率いる四国勢が戸次川合戦で島津軍に大敗を喫すると、鶴賀城は降伏開城となった。
鶴賀城は大野川東岸の標高193mの山頂に築かれており、現在は公園として整備されている。
鶴賀城は現地の呼称で紹介すると、山頂に本丸、東へ伸びた尾根に二の丸、三の丸、北へ伸びた尾根に穀倉跡、ノロシ台跡などの曲輪群を配している。
本丸は土塁囲みで一段低くなった広い空間の北側に櫓台と土塁を備える一段高い段が付く。その周囲には畝状竪堀群が巡り、南東側の尾根は三重の空堀によって遮断している。
本丸から東へ伸びた尾根にある二の丸、三の丸は曲輪としては規模が小さいが、南側の道路に面して土塁の防塁が伸びている。三の丸には畝状竪堀群が残るようだが、この辺りは藪で確認できなかった。
北に降りていくと穀倉跡と記された曲輪があり、周囲に畝状竪堀群が残る。北西側へ降りるとノロシ台を経て成大寺に至る。北へ降りると広い曲輪群を経て竪堀と堀切で遮断した尾根を下ると神明神社に至る。
鶴賀城周辺に残る史跡
・鶴賀城主利光宗魚の墓は成大寺(地図)
・長宗我部信親の墓と十河一族慰霊碑(地図)
・戸次川古戦場跡(地図)
・長宗我部信親終焉の処(地図)
車の場合、長宗我部信親の墓の前の通を進んで行くと鶴賀城への道標が出ており、これを入ると二の丸まで行くことができる。前回はこの道を利用したが、かなり狭い道であった印象がある。(地図)
歩いて登る場合、北西麓の成大寺から登山道が付いている。車はこの成大寺か利光公民館に駐車可能である。(地図)
最寄り駅(直線距離)