但馬国分寺は豊岡市日高町国分寺にあり、現在の但馬国分寺は浄土宗のお寺で山号を護国山と号し江戸時代の再建である。 天平勝宝8年(756年)頃に但馬国分寺がほぼ完成した。「続日本紀」によれば、宝亀8年(777年)に七重の塔に落雷があったことが記されている。弘安8年(1285年)には京都の法勝寺、明徳2年(1392年)には奈良の西大寺の末寺となっているが、次第に衰退していき、天正8年(1580年)羽柴秀長の但馬討伐で兵火によって焼失したという。
文化11年(1814年)伊能忠敬が但馬国分寺跡を訪ねた日記に、国分寺の礎石が三つあったと記されている。
国分寺の伽藍配置は南北に南門・中門・金堂が確認され、金堂から中門に回廊が巡る。塔は金堂の西、回廊の外側に建っていた。