文禄2年(1593年)ソウルから撤退した加藤清正が築城して守備した。
文禄の役の和睦交渉が決裂すると慶長2年(1597年)加藤清正が再び渡海して西生浦倭城に入城、その後、清正は蔚山倭城を前線に築いて移ると浅野幸長らが入城した。
蔚山倭城が敵軍に包囲されると、救援部隊が西生浦倭城を経て蔚山倭城に向かい、明・朝鮮の大軍を撃退した。西生浦倭城には伊東佑兵、高橋元種、島津豊久、毛利吉成ら九州勢が入城、その後、亀浦倭城から黒田長政が移って守備していたが秀吉の死とともに撤退して廃城となった。
日本軍が撤退したのちは朝鮮水軍の西生鎮城が置かれた。
西生浦倭城は釜山地方文化財記念物第8号に指定され、現在は公園として整備されている。
日本海に面した丘陵にあり、山上の主郭部と山麓を登り石垣で繋いで囲い込む縄張は特徴的で、麓が宅地となっているものの残存具合は良い。
山頂部は曲輪Iが主郭となり、北西隅に天守台がある。西は馬出し曲輪と記されているが、一派的な馬出しではなく曲輪で、南北両側に虎口を開くが、虎口は石垣で埋められ使えなくしている。これは慶長の役での改修と考えられている。
主郭の東にも曲輪があり、そこから山麓の曲輪と繋がる通路を降ると南へ張り出した曲輪に至る。この曲輪の虎口が山麓部と繋がる。
登り石垣の外側には巨大な横堀があり、石垣ラインに沿って屈曲しながら伸びている。南側には三条の竪堀も確認されている。
山麓部は宅地になっているが、北、北側西、南などら虎口が開く。南側は登り石垣が屈曲しており、その部分が櫓台状に拡がって民家が建っている。
鉄道釜山東海線 南倉駅(ナムチャン/Namchang/남창역)からバスに乗り換え、バス停が西生浦倭城の入口にある。