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写真館(188枚)
- 史跡指定
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市指定史跡
- 形態
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山城(600m/220m)
- 歴史
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建久9年(1198年)野仲重房によって築かれた。
重房は豊前国守護宇都宮信房の弟で、下毛郡野仲郷を分与され野仲氏を名乗った。
南北朝時代に野仲道棟・道春父子は北朝方として高勝寺城を攻め、永正5年(1508年)野仲興道は周防国大内氏とともに上洛し、船岡山合戦に参陣した。
戦国時代には大内氏に属すが、大内義隆が陶晴賢に討たれ大友宗鱗の弟晴英が大内義長と改名して大内氏を継ぐと、大友宗鱗が豊前に勢力を伸ばす。
この時野仲重兼は籠城して大友氏と対したが降伏、大友宗鱗はその武勇を賞して"鎮"の字を与え、野仲鎮兼と称した。
黒田氏が中津城に入封すると、野仲氏はこれに従わず、後藤又兵衛を先陣とした黒田長政に攻められ落城、野中氏は滅亡した。
- 説明
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「銃眼のある石積櫓」で有名な長岩城であるが、規模も壮大で全てを見て回るにはかなりの時間を必要とする。気が付けば休憩もほとんど取らずに4時間余り山を歩き回っていた。山には至る所に指標があり迷わずに散策することができる。
城は「なべもと谷」を流れる小川を挟んで東西の山にあり、西側が本丸などがある山城、東側が陣屋と称される屋敷跡などがある。
橋を使って津民川を渡り山に入ると直ぐに「一之城戸」があり、「三日月塹壕」、「二之城戸」、「三之城戸」と続き、ここが城と陣屋の分かれ道となっている。
城側へ行くと「東文台」にたどり着く。ここから本丸まで続く累々と築かれた石塁を横目に登る。この石塁の両側は竪堀となっている。
本丸には腰曲輪があり、虎口が良好に残されている。
本丸から堀切を越え「西文台」へと行く途中には両側を石塁で覆った道がある。「西文台」にも石塁が残り、南側には三条の堀切がそれぞれ南側に竪堀となって落ちている。
その最奥の竪堀を降ると「三之城戸」へと戻ることができる。
陣屋へ行くと一瞬砂防ダムと見間違えるような石塁が見え、ここが陣屋跡である。
左側に行くと「砲台」「洞窟」「馬場」などがある。
「馬場」は「古城ヶ鼻」とも言われ南背後に土塁を残し北へ三段程の削平地がある。
「銃眼のある石積櫓」を目指して陣屋から谷の奥へ進む。両側は切り立った岩山、最奥へたどり着くと、なんと鉄梯...
こわごわ登ると断崖地形、「銃眼のある石積櫓」は両側が急峻な細い尾根の途中に設けられていた。時おり強風が吹く、高所恐怖症なのに...なんとか石積櫓にたどり着いたと言うより逃げ込んだ感じだ。
そもそも「銃眼のある石積櫓」の用途は不明である。「銃眼のある石積櫓」とは言っても銃眼は尾根を向いていない。そもそもこんな急峻な尾根を登って来れるのだろうか?「中世城郭事典」の解説では「見張り場」ではないかとされているが、おそらくそうであろう。
私はこんな所で見張りをしたくはない...
「銃眼のある石積櫓」と反対方向へ行くと「弓形砲座」という遺構があるらしいが「キケン」と書かれており、直ぐ近くの石塁を越えるのでさえ無理そうだったので断念した。
- 城主
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野中氏
- 案内
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永岩小学校を目指して行けば良いだろう。
大きな看板があり直ぐにわかる。
- 所在地
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大分県中津市耶馬溪町大字川原口
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付近の城址
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※距離はおおよその直線距離です。 海・川・山などの地形および交通手段は全く考慮していません。
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- 最終訪問日
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2007年12月
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