築城年代は定かではないが宇都宮氏によって築かれたと云われる。
建久6年(1195年)下野国宇都宮信房が地頭職を得て入部し神楽城を築いたのが豊前宇都宮氏の始まりで城井(きい)氏を名乗った。その後、大平城へと居城を移し詰の城として築いたのが城井郷城である。
宇都宮氏は大友氏、少弐氏、大内氏、毛利氏などが覇を争った豊前国の中で独自の立場を築いていた稀な豪族であった。しかし、天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐に従軍するよう命ぜられると、当主宇都宮鎮房は病気と称して嫡子の朝房を派遣した。
九州征伐の後、豊前は黒田孝高に与えられ、宇都宮氏は伊予国今治へ転封とする命が降ったが、鎮房はこれを不服とし秀吉と対決する決意をする。あわてて毛利勝信が仲裁にはいり旧領を安堵させる約束してひとまず城井郷城を明け渡したが、いっこうに安堵の朱印はこなかった。意を決した鎮房は一族300人余りを引き連れて黒田氏の城代として城井郷城を守る大村氏を追い払い城井郷城に復帰した。
城井郷城に鎮房が復帰した知らせはすぐさま旧家臣に伝わり、わずかの間に数千もの軍勢に膨れ上がった。この知らせを受けた黒田孝高は驚き秀吉に援軍を求めて毛利勝信の兵を加えた二万余騎の軍勢で黒田長政を総大将として城井郷城を攻めた。
しかし、狭い渓谷の最奥に位置する城井郷城へ向かう軍勢は宇都宮氏の伏兵に散々悩まされた挙げ句に敗北する。孝高は武力での鎮圧を諦め、秀吉に使者を遣わし鎮房の娘鶴姫を長政の嫁に嫁がせ、宇都宮氏の旧領は安堵という条件で和睦する事となる。
天正17年(1589年)豊臣秀吉の命により宇都宮鎮房は中津城にて黒田父子と対面するよう命ぜられ、鎮房は家臣を引き連れて中津城へ向かい酒宴の石で後藤又兵衛の槍によって暗殺された。これによって宇都宮家は滅亡する。
城は城井谷の最深部に築かれており、西には城井川が流れ周囲は600〜700m級の山々が連なっている。この城を散策するにあたって山へ入る道を誤り、引き返せば良いものを一時間あまりさ迷い続けてなんとか裏門近くへたどり着くことができた。そのおかげで周囲の山の尾根の具合を身を持って知る事ができたが、はっきりいって岩場だらけで山上まで上がることができず、中腹をなんとか移動するのが精いっぱいであった。
牧の原キャンプ場を過ぎて南下すると牧の原橋があり、そこから県道を外れて城井川沿いに南下すると「三丁弓の岩」と呼ばれる切り立った岩がたっている。この岩に三人の強弓の兵がいれば幾千もの兵をも防ぐことができると云われる。
この「三丁弓の岩」を過ぎてさらに南下したところに東の山から城井川へ流れ込む支流がある。この沢沿いに東の山の谷へ入った所に平地が広がるが、入口は岩によって天然の門となっている。
沢沿いの谷間に標柱の建つ平地があって神社があったのだろうか基壇が残っている。ここから更に谷の奥へ進むと「裏門」と呼ばれる天然の岩の架け橋があり、苔むした岩場を鎖を使って一歩一歩慎重に登る。どうやらこの上が本丸跡らしいのだが、城地は非常に狭く、とてもここに籠るといった雰囲気ではない。