千葉胤頼の墓ちばたねよりのはか
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千葉胤頼は少弐資元の二男で千葉喜胤の養子となり晴気城主であった。 永禄2年(1559年)に牛尾城主の千葉胤連が龍造寺隆信の支援を受けて晴気城を攻めてきたが、胤頼は多勢に無勢であったため晴気城の東の山道で家臣12人とともに討死したという。
千葉胤頼の墓は討死したと伝えられる場所にあり立中社(たつちゅうしゃ)が祀られている。胤頼の遺骸は三間寺(円通寺)に葬られたと伝えられ、本龍院にはその位牌があり、法名は「天授本龍大禅定門」という。