相良義陽の墓さがらよしひのはか
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相良義陽は球磨郡の国人領主相良氏18代当主で島津氏と争っていたが、天正9年(1581年)に降伏する。その後、島津氏と敵対していた阿蘇氏攻めを命ぜられ、響ヶ原(響野原)で阿蘇氏の武将甲斐宗運と戦い討死した。
古麓町にある相良義陽の墓は首塚と伝えられており、鹿児島本線の建設で現在地に移されている。墓は鉄道の線路を越えた山側にあり、フェンスは鉄橋のすぐ下に開口部が設けられている。