篠塚伊賀守重広は南北朝時代の武将で、南朝方の新田義貞の四天王の一人に数えられた人物である。義貞の死後は弟の脇屋義助に従い、興国3年(1342年)世田山城に籠城したが敗れて隠岐島へ落ち延びたという。
篠塚伊賀守が落ちたのがこの魚島という説があり、篠塚公園(篠塚さん)には篠塚伊賀守の墓と伝えられてきた宝篋印塔(国指定重要文化財)があった。現在この宝篋印塔は篠塚伊賀守の墓ではないということで、亀居八幡神社に移されている。
篠塚公園には小さな宝篋印塔や五輪塔などの石塔群があり、東屋から下へ降りて行くと『南朝忠臣篠塚伊賀守墓所』の石碑がある。