築城年代は定かではないが南北朝時代の築城と云われる。
室町時代初期には丹波守護細川氏の一族下野満国・持春父子が城主であった。
波多野氏が丹波守護代となると畑氏が代々城主を務めた。 天正7年(1579年)明智光秀の丹波侵攻により落城、ときの城主畑守能の長男守国と次男能国はともに討死、守能は囲みを突破して落ち延びた。
八百里城は標高442mの八百里山に築かれており、山頂の主郭部、標高320m付近の曲輪群、そして南尾根の先端、標高300mの曲輪群の三箇所に遺構が残る。
山頂部に残る主郭部は東西に伸びた尾根に高い切岸を持つ曲輪を連ねた単純な連郭式で、主郭はほぼ中央に位置する。主郭に低い土塁があり、西尾根に大堀切が一条残る。
標高320m程の所に社が祀られているが、この辺りが曲輪群になっている。この辺りには石積が残されているのだが、後世のものだろうか。東に一条竪堀が落ちている。
南へ伸びた尾根の先端にある曲輪群は北西背後を二重堀切で遮断しているが、曲輪は二つの円墳のようなものが並んでいて削平は甘い。
登山道は南東麓にあり入口に案内板が設置されているのでわかりやすい。この辺りには駐車できないので、南の県道沿いにある公民館に駐車するのがよいだろう。
動物除けの柵があり、これを明けて登山道が尾根上に伸びる。南端の曲輪群へ向かう尾根にも出入り口があるので、そのまま尾根伝いに散策することが可能。
最寄り駅(直線距離)