築城年代は定かではない。
天文4年(1535年)頃に因幡山名氏の一族山名上野介が所領を失って但馬の山名祐豊を頼って二人の子を預けた。波多野秀光に養育された二人は兄豊直が夜久野城、弟豊次が野間館(磯部氏館)に入れともに磯部氏を称した。
『朝来市の城郭集成(朝来市歴史文化遺産活用推進協議会) 』では兄弟を受け入れたのは山名祐豊の家臣で磯部に居住していた波多野孫二郎で、豊直は波多野孫二郎の城であった夜久野城を譲られたのではないかとしている。
夜久野城は丹波との国境に近い丘陵に築かれている。南の国道側は高低差があり急峻であるが、北の台地側からの比高は20m程しかない。
夜久野城は南北二郭で構成されているが、その構造は大きく異なっている。
主郭は南郭で広く削平され、北に虎口1を開く。虎口1はスロープを登って右折れで入る構造で、曲輪の北端はスロープに面して張り出している。
主郭の南下には腰曲輪I3があるが、周囲は急斜面で堀は設けられていない。北西下の曲輪I2は二郭に面して高土塁を設け、その脇に虎口2を設けている。I2の東側にも虎口3があり、北郭を経ず直接主郭部に入っているので後世の山道とも考えられるが加工に違和感はない。
北の二郭は主郭に比べてまとまりがなく、最高所のII1はほとんど削平しておらず自然地形に近い。削平地II2、3、4は北尾根側からは見えない南側に設けられており、特にII4は周囲を削り残して土塁状とし、内側を削平して造成している。
二郭の外縁部には土塁を伴う小郭II5、6、7を設けている。曲輪II5には虎口4があり、左折れで入る構造になっている。虎口4の外側にも堀はなく、北尾根からみると正面に虎口が見えている。
北側にある田中工務店の入口の脇に林道がある。工務店のフェンス沿いに回り込むと虎口4が見えてくる。
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