築城年代は定かではないが井出長門守によって築かれたと云われる。 井出氏は前山城主伴野氏の家臣という。
その後、村上氏の家臣薬師寺右近・多知三多兵衛・小沼川舎人亮等が守将となり武田氏に備えていた。
天文5年(1536年)甲斐の武田信虎が海尻城へ攻め寄せたが村上義清は屋代正重・室賀満氏・小野沢清永等を援軍として派遣しこれを退けた。天文9年(1540年)には武田氏の武将板垣信方が攻め寄せ、この時も城兵は堅く守って攻め手を寄せ付けなかったが、信方は一旦囲みを緩め退却すると見せかけて城兵を油断させ、一気に攻め寄せてこれを落としたという。村上義清はこの報を受け直ちに海尻城へと迫り、海尻城はくじ引きで当たったという小山田昌行(一説に父昌辰)が本丸、小山田昌時が二の丸、長坂国清が三の丸を守っていたが、義清はもう攻撃をしかけ三の丸・二の丸を落とし本丸まで攻め寄せたが、急の知らせを受けた武田氏の援軍により落城を免れたという。
城は千曲川の西岸にあり東へ伸びた丘陵の先端の愛宕山に築かれており、北に大月川、南に新殿川が千曲川に流れ込んで天然の濠となっている。
主郭は愛宕山山頂にあり、西の日向山へ通じる尾根に堀切、東に二段の曲輪がある。 日本城郭体系などの縄張図では、この山上の曲輪をそれぞれ本丸・二の丸・三の丸としているが、案内板によれば、山上が本丸・東の殿岡地区が二の丸・医王院から諏訪神社付近が三の丸とされている。
国道141号線沿いにある海尻郵便局の西にある医王院に登り口があり、国道沿いに少し南へ行った所にある「南牧村基幹集落センター」の所に案内板が設置されている。
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