築城年代は定かではない。正慶2年(1333年)赤松円心が布引の城に籠もったことが『正慶乱離志』に記されており、滝山城の初見とされ、南北朝時代には摩耶山城などとともに争われた。
戦国時代には三好長慶の家臣松永久秀が滝山城主となっており、このときに現在の状態に改修されたようである。永禄7年(1564年)長慶が没すると三好三人衆と争うこととなり、久秀が堺で戦っている間に三好方の淡路十人衆らの攻撃によって水ノ手を押さえられ、永禄9年(1566年)に落城した。
その後は篠原長房の持ち城となっていたが、織田信長の侵攻により有岡城主の荒木村重の持ち城となった。天正6年(1578年)荒木村重が信長に叛くと信長は有岡城の支城である花隈城攻めの際に滝山城を攻め落とし、花隈城攻めの付城の一つとしたという。
滝山城は新神戸駅の北西に聳える標高323mの城山に築かれている。 現在はハイキングコースが整備されている。
滝山城は山頂の主郭から東へ伸びた尾根と南東に伸びた尾根に曲輪を展開しており、東の鞍部にある大堀切を境に東曲輪群と主郭部に分かれる。
東曲輪群は標高300mを最高所として南東に伸びた尾根に段々の曲輪群を連ねているが、最高所の部分は自然地形の緩斜面で切岸もほとんどない。
主郭部は山頂の櫓台と土塁の上に滝山城の石碑があり、南東下の東屋のある広い曲輪が主郭となる。ここから南東に伸びた尾根に土塁が付いた小段が続いており先端に堀切がある。一方東曲輪群へと繋がる東側は広い段曲輪が続き、東曲輪群との境に虎口を持った石積を用いた広い曲輪がある。この鞍部が堀切状になって通路となり、それに面して土塁の付いた曲輪がある。
新神戸駅の下を潜って北側へ抜けると布引の滝へ行くハイキング道がある。この入口に滝山城の案内板と石碑があり、そこから登っていくことができる。
最寄り駅(直線距離)