築城年代は定かではないが嘉元年間(1303年〜1306年)頃に禰寝清治によって築かれたと云われる。 禰寝氏は建仁3年(1203年)建部清重が禰寝南俣院の地頭職となったことに始まるとされる。 清重は平維盛の孫といい、当初は佐多の高木城に居たが、五代清治のときに富田城を築いて居城としたという。
正平年間(1346年〜1370年)はじめ、七代禰寝清成のとき、国見城を築いて居城を移し、南北朝時代には北朝方の畠山直顕に従い南朝方の楡井頼仲と戦った。
その後、禰寝氏の居城は国見城から再び富田城へと戻された。禰寝重長は伊東義祐・肝付兼続・伊地知重興らと結んで島津氏に反抗していたが、元亀4年(1573年)島津氏の要請に応じて和睦した。天正2年(1574年)には肝付氏等の軍勢が瀬脇城を攻め落とし富田城にも迫ったが、島津氏からの援軍を得て撃退した。
文禄年間(1592年〜1596年)の禰寝重張は富田城が手狭であることから、国見城へ居城を移そうとしたが、島津氏によって日置郡吉利へ転封となった。
富田城は雄川の南岸にある標高70m程の山に築かれている。 富田城はシラス台地に築かれた群郭式の山城であったようだが、現在はシラス採取によって大きく遺構は損なわれた。城郭大系および城郭全集のルビは「とんだ」であるが、現地では「とみた」と呼んでいるのでこれに従っている。
南谷集落の北側にある小丘が城跡で、本丸と東城が残るという。畑仕事をしていたご婦人の話によれば、本丸へは道が付いており上には石碑があるという。しかし、現在では薮化して道は消滅、とても登れるような状況ではなかった。
北麓の北之口集落にある勝雄寺跡付近(地図)には「祢寝(禰寝)氏累代の墓」があり、五代清治から十六代重長までの墓碑・古霊塔が残る。
南谷集落内を走る道路沿いに南谷集落センターがあり、その向かいに富田城跡入口の標柱が建っている。中に入って畑があるが、左奥に見えるのが本丸、正面が東城である。