築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)初頭に禰寝清成によって築かれたと云われる。 富田城を居城とした禰寝氏が七代清成のとき、国見城を築き居城とした。
南北朝時代に禰寝氏は北朝方の畠山直顕に従い、南朝方で志布志を拠点とした楡井頼仲と争った。文和2年・正平8年(1353年)楡井頼仲が国見城に攻め寄せ、大手・搦手を攻め、野首でも合戦が行われたが、要害堅固な国見城は落城しなかった。
禰寝氏はその後再び富田城を居城とし、国見城には家臣を置いて守らせたが、文禄年間(1592年〜1596年)の禰寝重張は富田城が手狭であることから、国見城へ居城を移そうとしたが、島津氏によって日置郡吉利へ転封となった。
国見城は東の山塊から西へ張り出した台地に築かれている。東を除く三方はまさに壁のような急峻な地形を有する要害の地である。
台地の上には城内という集落があり、一本の道が台地の上を東西に走る。その東端に近い所に城内公民館があり、ここに案内板が設置されている。 遺構は公民館から東へ少し歩いた辺りに土塁と二条の空堀が残されている。この付近に「城之門跡・番所跡・湧水跡」と「国見城搦手口内堀跡」の標柱が建っている。