築城年代は定かではないが寿永年間(1182年〜1183年)頃に禰寝小太郎義明によって築かれたと云われる。禰寝(ねじめ)氏は冨山氏とも呼ばれ長寛2年(1164年)冨山五郎太夫藤原義光が禰寝北俣院の荘園領主として下向し、その子義明によって大姶良城が築かれたと云う。
禰寝氏は三代義宗、四代義清と続き横山・志々目・浜田といった領地を分領して繁栄した。
南北朝時代には北朝方に属す。南朝方に属した肝付兼成は大姶良城・横山城を落としたが西俣へ向かう途中、志々目氏の伏兵に討たれ、志々目氏は大姶良城を回復して肝付氏の残党を打ち払った。しかし、これを好機と見た楡井頼仲が大姶良に攻め寄せ再び大姶良城を失う。正平7年・勧応3年(1351年)には禰寝清成が大姶良城を一時奪取したが再び楡井氏に属し、その後も度々楡井氏と禰寝氏で争われた。 正平12年・延文2年(1357年)楡井氏は禰寝氏と畠山氏によって滅ぼされたが、翌年肥後の菊地氏が日向に攻め入り日向国穆佐城の畠山氏を攻め落とし志布志まで下って楡井氏を弔った。菊地氏が引き上げた後、島津氏久が大姶良城に入り、ここで長子元久が誕生した。
戦国時代には肝付氏の所領となって橋口但馬守が城主となり、天正5年(1577年)肝付氏が島津氏に降るまで続いたと云う。
城は大姶良川の南の丘陵に築かれている。 大姶良城は内城・松尾城・浅井城・西の城・富山城・獅子目城・参河城・尾崎城・野首城・中城・南城・蜂須賀城の総称という。
八幡神社の北の丘陵の南麓に案内板が設置されている。駐車スペースの奥に設置されている為、見付けがたい。この上には祠が祀られていて竹薮となった山上を少し歩いてみたが西側に土塁が残存していることは確認できた。