築城年代は定かではない。正治2年(1200年)芝田次郎は鎌倉幕府からの召し出しに応ぜず、参上しなかったことから、幕府の命を受けた宮城四郎家業によって芝田館を攻撃され、滅亡したという。
天文年間(1532年〜1555年)には伊達稙宗の家臣四保但馬守定朝が居た。定朝の子宗義のときに四保氏から柴田に改称し、文禄2年(1593年)志田郡桑折へ転封となった。柴田氏は慶長8年(1603年)に伊具郡金津、慶長12年(1607年)に胆沢郡水沢、元和2年(1616年)に登米郡米谷と転封したが、天和元年(1681年)の伊達騒動の後、柴田宗意のときに再び舟岡要害へ戻ってきた。
慶長年間(1596年〜1615年)には伊達氏の重臣屋代勘解由景頼が二の丸に住んでいた。元和元年(1615年)原田宗資が桃生郡大瓜から転封となるが、その子宗輔のとき伊達騒動によって原田家は断絶、柴田宗意が舟岡要害に復帰して以降明治まで続く。
柴田城は白石川南岸のに聳える標高136mの館山あるいは四保山と呼ばれる山に築かれていた。現在は船岡城址公園となっている。
柴田城は平和観音像が建っている山頂に本丸、南に二の丸、そして北東の尾根先部分に三の丸が置かれていた。中世の山城は本丸、二の丸が中心で、舟岡要害となった江戸時代は柴田氏の館は三の丸に置かれていた。
山上の本丸、二の丸は公園化によって曲輪の形状がよく分からなくなっている部分が多いが、本丸から北へ伸びた尾根には堀切が残っている。
三の丸には井戸が残されているというが、当日は催し物が行われていたこともあって確認できなかった。案内板はこの三の丸の北端に建てられている。
三の丸近くの柴田町観光物産交流館の近くに駐車場がある。山頂へは遊歩道を歩いて行くことも可能だが、ケーブルカーがあった楽々登る事もできる。
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