天文年間(1532年〜1555年)はじめに松本宮内が城を築こうと地取りしたが完成しなったと云われる。
天正12年(1584年)伊達政宗は蘆名領の檜原へ侵攻し、穴沢氏の戸山城と岩山城を攻め落とした。さらに、柏木城を攻めたがこれを落とすことはできなかった。このため猪苗代氏を内応させようと画策し、このあいだに政宗が築いたのが檜原城である。しかし、猪苗代氏の内応に失敗したため、政宗は家臣の後藤孫兵衛信康を城代として守らせ米沢へ退いた。
檜原城での在番はよほど苦しかったようで、後藤信康はしきりに在番を交代してもらえるよう政宗に懇願している。
天正16年(1588年)猪苗代の鶴峯城に隠居していた猪苗代盛国を内応させることに成功した伊達政宗は、天正17年(1589年)摺上原(磨上原)の戦いで蘆名を攻め、檜原城から原口左馬介が柏木城を攻めたが、柏木城を守っていた城兵はすでに黒川城へ退いており、空城であった。
檜原城は標高954mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
麓に拡がる桧原湖は明治21年(1888年)の磐梯山噴火にともなって発生した湖であり、江戸期以前には存在していなかった。
桧原城は山頂遺構と山麓遺構が存在しており、山麓遺構は土塁や枡形虎口が存在しているが、湿地帯にかけられていた木橋が老朽化して現在は見学できなくなっている。
山頂部には3つの曲輪群があり、最高所は曲輪Iである。主郭はIIとする説もあるが、曲輪Iが曲輪IIよりも高く、曲輪II側に土塁があり、虎口構造も曲輪IIより上位に位置していることから考えると主郭は曲輪Iと考えられる。
主郭Iは南東隅に虎口があり、木橋で曲輪IIと接続していた可能性が高い。
曲輪IIは城内で最も広く削平された空間を有している。南側に虎口2があり、そこから虎口3に続く城道は複数回の折れを伴い、伊達氏虎口の特徴を示している。また西側にも城道らしきものが残されており、こちら側にも虎口があったと思われる。
曲輪群IIIは南へ緩やかに下る尾根を削平しており、東西両端を通路として残し中央部を小さく段々に造成している。
南端の尾根先は三重堀切1で遮断するが、北端は堀切が確認できない。ただし南東鞍部への高低差は大きく傾斜もきついことから堀切が必要なかったとも考えられる。曲輪群の周囲を取り囲むように横堀2、3、4、5を設けている。
南の尾根先から登るルートと西山腹を登るルートがある。 西山腹を登るルートは県道沿いに余白があり駐車可能である。
南麓の枡形遺構は以前は散策可能なルートが整備されていたが、現在は湿地帯に設置されていた木橋が破損していて見学ができなくなってしまっている。