築城年代は定かではない。鎌倉時代に浅川氏が築いたとも云われる。浅川氏は石川一族とされるが、日本城郭大系によれば、甲斐の浅利氏の一族浅利太郎知義が浅川の地を与えられ、浅川氏となったとしている。
永禄年間(1558年〜1570年)から天正年間(1573年〜1592年)頃にかけて、白河結城氏や佐竹氏らの軍勢に攻められたが、辛くも落城することなく撃退した。しかし、天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置で所領を失い、石川昭光に従って城を退去したという。
浅川城は浅川市街地の北東に聳える標高407.4mの城山に築かれている。現在は山頂付近まで車道があり、主郭部は公園として整備されている。
主郭部は公園となり北側が一段高く主郭となり、南下に広い二郭がある。この主郭部から北へ続く尾根筋に大きな空堀で区画された曲輪群が連なっていたが、現在は車道によって東西に分断され遺構は大きく損なわれている。しかしながら、残された遺構を観察すると、切岸(=堀切)は高く、北端部の曲輪は車道の東下にl字に曲がる横堀もあり、かなりの土木量を誇る山城であったようである。
今回は見学していないが、南の車道入口脇の辺りには居館とされる平段が残っているようである。
舗装された車道があり主郭下に駐車場がある。
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