築城年代は定かではない。一説に承久の乱(1221年)の功によって大桑の地を与えられた逸見又太郎義重の子、逸見又三郎重氏が築いたとも云われる。
その後、美濃国守護土岐氏の城となり、天文4年(1535年)頃には守護所を枝広館から、大桑城下へ移したとされ、天文11年(1542年)に土岐頼芸は斎藤道三によって一時美濃を追われた。 頼芸は越前朝倉氏・尾張織田氏の仲介により和議が整い美濃に帰ることができたが、天文21年(1552年)再び美濃を追われ、土岐氏は滅亡した。
大桑城は標高407.5mの古城山(金鶏山)山頂に築かれている。 南に開けた谷間の集落には城下町が置かれ、谷間の入口には「四国堀」・「越前堀」・「外堀」と呼ばれる外郭の土塁と堀があった。
主郭とみられる山頂付近は南北に延び、山頂は岩場で小高くなっているが非常に狭い。西下にやや広い腰曲輪があり、北側へ延びている。
山頂から南西に伸びる尾根には堀切や狭い曲輪群があるが、北西の谷間に屋敷跡と見られる段が幾重にも設けられ、一部石積が残っている。反対側の南東の中腹には「霞ヶ井」と呼ばれる井戸が残る。
南西の先端部は、東西に伸びたやや広い曲輪の北西下に土橋の架かる堀切が残っている。
大河ドラマの影響で登山口の駐車場などが整備されている。
登山道は南麓の「おえおが城山公園」のところから登るルートと、そこからさらに林道を車で上がったところから登るルートがあり、後者のほうが楽である。