築城年代は定かではない。
天正2年(1574年)上杉謙信は深沢城と五覧田城を攻め落とし、深沢城を確保して五覧田城は破棄した。このときの五覧田城は五覧田の砦とみられている。 その後、由良国繁が五覧田根小屋に籠もる沼田衆を攻め落とした。
天正7年(1579年)北条氏との協定によって、深沢城と五覧田城は由良国繁が支配することとなった。
天正12年(1584)由良国繁と北条氏直が敵対すると、北条氏直は深沢城主阿久沢氏や前原氏・目黒氏に命じて五覧田城を攻め落とさせ、阿久沢氏に五覧田城の普請を命じている。
五覧田城は渡良瀬川とその支流である小黒川、田沢川で囲まれた標高592.9mの山頂に築かれている。
五覧田城は山頂の主郭を中心として北、西、東の三方に伸びた尾根に曲輪を配している。
東西の尾根は登山道により遺構が損傷し、わかりづらくなっている部分が多い。 主郭は東西に長い曲輪で低い土塁が付いている。
西尾根は三条程の明確な堀切が付いており、曲輪は主郭側は割としっかりしているものの、途中の曲輪は自然地形に近いものとなっている。しかし、西端の曲輪は先端に土塁が付いて削平もしっかりしている。
東尾根は東端の曲輪に東屋が建ち旧状は不明であるが、こちらも主郭部に近い部分は外側に土塁が付いた小郭があり、堀切も深いが、東側は自然地形に近いものとなっている。
北尾根は主郭の北下に堀切があり、この堀切が一番状態が良い。堀切の先はこれまた自然地形に近い尾根が続き、北端に三段程の削平地が付いている。
麓から比高300m程ある山だが、車で東尾根の標高520m程の所まで登ることができる。
国道122号線が小黒川を渡り800m程進んだ所に鋭角に山側に入る道がある。ここに五覧田城の道標が出ている。あとは道なりに林道を登って終点に大きな駐車場(地図)がある。
最寄り駅(直線距離)