築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)に牲川(贄川)筑後守義春によって築かれたと云われる。
牲川氏(にえかわ)は義春の祖父牲川左衛門頼俊が楠木正成に仕えていたが、千早城落城によって十津川へ逃れ、義春のときに紀北へ復帰し長藪城を築いて居城としたという。
牲川氏は義春の後は義則、義次と続き、畿内に勢力を伸ばした織田氏に属した。しかし、その子義清のとき、天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀州攻めによって攻め落とされた。
長藪城は城山小学校の北方に聳える標高340m程の山に築かれており、河内や大和との国境に近い場所にある。
長藪城は東西二つの峰に西城と東城があり、さらに南西の先端の標高300.5mの峰に出城がある。
東の城は南北に長い曲輪の南西端に折れを伴う虎口があり、南西、南東、北東、北西の四つの尾根を堀切で遮断している。
西の城が主郭と思われ、北端の最高所に土塁が付いた主郭があり、南西に伸びる尾根に曲輪が伸びている。東の城へ続く東尾根は大堀切、北、北西、南尾根も堀切で遮断する。出丸のある南西へ続く尾根には竪堀が長く伸びる堀切を用いて遮断している。
出丸は西の城から南西に伸びた峰にあり、山頂部を中心に帯曲輪が巡っている。
整備された登山道ではないが、出丸、東の城、西の城と周遊することが可能。今回は西の城から回って出丸経由で降りている。
西の城への入口は水道施設の所(地図)で、付近に駐車することが可能。ここから尾根伝いに登っていくことができる。
出丸への入口は墓地の上にある(地図)。この墓地前の道は車では行くことができない。
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